【国際基督教大学】「教養」は人と社会に何をもたらすのか

【国際基督教大学】「教養」は人と社会に何をもたらすのか

日本の高等教育の在り方が見直されている現在、様々な分野を学際的に学ぶリベラルアーツが注目を集めている。幅広い知を身につける教養教育は、果たして人や社会に何をもたらすのか。日本における教養教育のパイオニア、国際基督教大学でフランス文学を担当する、教養学部長・岩切正一郎教授にお話をうかがった。


なぜ日本において教養教育が必要とされたのか

—日本の大学における、教養教育の歴史と成り立ちについて教えてください。

日本では東京大学とICUが近い時期に教養教育を始めていますが、これは第二次世界大戦での敗北が大きく影響しています。そもそも、日本はなぜこんなことになってしまったのか—そこにはいろんな要素がありましたが、教育のあり方というのも非常に大事だった、という反省があったのです。専門教育を受け、自分の知っている範囲だけの狭い視野で物事を見て判断する人が多かったのではないか。文系・理系、あるいは人文科学・社会科学・自然科学のどれか一つだけをやるのではなく、世界のコンテクストの中で自分が置かれた位置を客観的に見て、総合的に考える。自分の頭で考えて良し悪しを判断できる。そんな人を作らねば、というのが教養教育の根底にあったのではないでしょうか。

—戦後の新しい日本を作っていけるのは、そういう人材だと考えたのですね。

そうですね。上の人が言ったことを鵜呑みにして何でもやってしまったり、それに対して抵抗もできないような社会や人ではなく、与えられた指示やデータに対して本当に正しいものなのかきちんと考え、何かをやる場合にはそれが本当に良いことなのかを判断できる。そんな人を教養教育の名の下に作りたかったのだと思います。

—東京大学とICUの教養教育は、どんな点が違うのでしょうか。

東京大学では1、2年生が教養学部で学んで、3、4年生で専門に分かれますが、ICUでは1〜4年生まで教養学部だけという構成です。2年次の終わりに「メジャー」と呼ばれる専修分野から自分の専門を選択するシステムになっています。前者も後者も同じように聞こえるかもしれませんが、ICUではどんな専門科目でも教養という大きな「知」の枠組みの中にあるもの、ということを常に意識してもらいたいと思っているんですね。メジャーは人文科学・社会科学・自然科学を広くカバーした31専修分野が用意されていて、1つをおさめるメジャー、2つをおさめるダブルメジャー、あるいは2つの分野の比率を変えておさめるメジャー・マイナーなど様々な選択が可能です。また、メジャーを選択した後も、それ以外の分野の授業も自由に履修することができます。

—31のメジャーを見ますと、文学あるいは、哲学から経済・法律・物理・情報科学にいたるまで、じつに多岐にわたっています。幅広い領域がカバーされクラスの環境は少人数制ですね。

そうですね。全体の知の枠組みの中で自分の位置を見る目。専門領域を深めるという目。2つの見方を身につけてほしいので、このシステムは献学以来ずっと変わっていません。それに自分の関心に合わせて学問領域を選ぶ自由があるというのは、非常に重要なことです。いろいろ学んでいくうちに途中で関心が変わった、本当にやりたいのは別のことだった、と気づくこともありますよね。
たとえば高校生だと、いま世間で注目を集めているAIや情報科学などが気になるのではないでしょうか。でも教養教育で広い学びを得ると、社会学に関心が向いてきたり、文化人類学やメディアコミュニケーションをやりたくなったりと、関心が変わってくることはめずらしいことではありません。あまり最初から学部や学科でガチガチの枠にはめてしまうと、自分の関心が変わったときにやり続けるのが苦しくなるのではないか、と思います。

日英バイリンガリズムを基礎にもうひとつの言語を習得する

—ICUでは日本語と英語のバイリンガル環境のもとでリベラルアーツ教育が実践されていますね。

はい、さらにもう1つ「2プラス1」と名付けて日英プラス他の言語もやるべきだと推奨しています。国際化で英語が主流で使われるというのは確かですけれど、英語しか使わないということは結局モノリンガルなのです。英語の枠組みの中で英語的な思考を学ぶので、他者の目が入ってこない危うさもあり得ます。また、かつてのヨーロッパではラテン語が教育や学問のための言語でした。ところが17世紀以降、それに対してフランス語などの“自分たちの国語”、俗語で著作を書き、思想を表現することで、ラテン語を学んでいない一般市民とも知識を共有できるようになったのです。英語はもちろんあらゆる場で必要ですが、かつてのラテン語に重ねて考えると英語だけで学ぶのが果たしていいのか、という気がします。

—よくわかりました。しかし今は英語のみで授業を行うことを売りにしている大学が増えているのが現状です。
やはり言語がものの考え方を規定しますし、日本にも約1億人の日本語話者がいるわけです。その社会にむけて、“普通のことば”で知を共有することも必要なことですよね。それに専門用語を使って一段深いレベルで議論するような大学レベルの日本語は、高校までの日本語とはちょっと違います。これは学生時代に意識して学ばなくてはならない日本語で、英語だけで置き換えられるものではないと思います。それに経済や国際政治のレベルでは英語のみでもある程度対応できるでしょうが、ICUには31もメジャーがあり、日本の政治や美術・音楽・文学も扱います。そういう領域を英語だけで学ぶのは難しいでしょう。

—1億人に向けた知の共有というのは、確かに大事な視点ですね。

もちろん国際社会でのビジネスや交渉などを英語でやっていくための能力の獲得は必要です。とはいえ、ICUはそれだけを目指しているのではありません。さまざまな分野のいろんな場所で活躍してくれる人を育てたいのです。日英以外にもう1つ別の言語を持っていれば、その土地ごとに独自の言語や文化があることにとても意識的になります。これはとても国際的な感覚なのです。

教養教育で養う力と、目指す人間像とは

—経団連の提言でも、「ソサエティ5・0の社会を支える人材には、幅広い教養が不可欠」という提言がありました。改めて、教養教育の果たす役割とはどのようなものなんでしょうか。

人間を陶冶していくものだと思います。何かを学び、知ることや認知することの喜びを得て、人間性が豊かになる。同時に得た知識を使って良いことと悪いことをきちんと判断する力を養う。教育の根本にはまずこのことがあるはずです。ただ、物事の良し悪しというのは個人と国家、あるいは人間性と経済成長、など何を優先するかで答えが変わってきてしまう。そうした状況でも、本質的に何が良くて何が悪いかという識見を身につけて判断し、その根拠を説明することができる人材を育成することが教養教育だと思います。

—グローバル社会で多くの人と共存していくこれからの時代、その良いことと悪いことを判断していく力が問われていくことになるのでしょうか。

環境・貧困・移民など、社会はいろんな問題を抱えていますし、判断が難しい状況もあると思います。それでも、「経済成長できさえすればいい」「一部の人に富が集まってもいい」あるいは「1つの企業が世界中から富を吸い上げてもいい」そんな現状や意見に対して「それはおかしいじゃないか」という視点は必要ですよね。そこで何が良くて何が悪いのか、きちんと答えられるのが教養なのではないでしょうか。それは経済的な指標では測れない豊かさを理解したり、日常の営みのなかに意味や幸せをきちんと見出すといった「人間にとって一番大切なことは何か」という問いにつながっているのです。

—確かにそういう視点のない世界は、経済性や合理性に偏ってしまいそうです。

経団連や大学改革の話とも関係するのですが、現代は全て数値化したりポイント制にして数字でものを捉えようとしています。比較の尺度として必要なものでしょうが、数字からこぼれ落ちているものに対する眼差しをちゃんと持っている、というのはとても大事なことだと思います。論理的で批判的な思考をICUは大切にしています。それは結局、カオスに耐える力を育むということでもあるのです。たとえ対象が捉え難いものであっても、それを理解し、解釈しようと探っていく。そういう人が教養教育でもっと育ってほしいのです。教養とは、何かのスキルのように身につけて役立つという“目標”ではなく、知識を良いもののために使い、それを使うことで人間や社会、世界に対して良いことをしていくプロセスなのです。

イノベーションに必要なのは好きなことに集中できる“遊び”

—いま日本が衰退しているのは、イノベーションを興す力がないからだとよく言われています。教養で幅広い知識を持つことは、イノベーションにも有用なのだと思われますか?

イノベーションというのは、誰かがあらかじめ決めたり用意してくれているわけではなく、まだ存在しないものを自分で作ったり考えを打ち立てるといった、新しいものの「創造」ですよね。これはリベラルアーツの学びと非常によく似ていると思います。あらかじめ価値があると決められたものを身につけるという受け身の学びではなく、何になるかわからないけど自分の興味がまずあって、夢中になってやっているうちに何かができていく、そういう面白さはイノベーションにもつながっていくと思います。

—いまは何事も最短距離が重視されていて、「何になるかわからない」という部分は敬遠されがちです。

そうですね。いまは遊びがなくなりすぎていると思います。遊びとは悪い意味ではなく、“暇”という意味ですが。「スクール」の元々の語源は、労働の休止、学びに割当てる余暇という意味なのです。ある成果のためにやるのではなくて、問い学ぶこと自体が楽しい、そういう空間や時間の余裕です。大学入試改革をはじめ、これまでの教育制度が悪いといっていろんな改革がされていますが、そんな過去の制度からもノーベル賞をもらうような優れた人たちがたくさん出ています。彼らの話をテレビ番組や講演会で聞くと、とにかく自分が好きなことを夢中でやっていたと。時には周囲からあの人おかしいと思われていても、一生懸命やっているうちにそれが大発見につながったりしている。僕は国全体でそんなやり方を許容する度量がなければ、国力はどんどん下がっていくのではないかと危惧しています。何か目標を掲げて3年以内で成果を出せとかではなく、もっと大きな時間を与えられて、その中で自由にいろいろ考えていくうちにイノベーションにつながる発想が生まれてくるのではないでしょうか。いまは暇を与えると何もしないと言わんばかりに、周囲が干渉しすぎている気がします。

—そういう良い意味での遊びがICUにはあるのでしょうか。

あると思いますよ。キャンパスには自然がたくさんあって、ムダに思えるほど緑や空間が豊富です。学生が普段から意識しているわけじゃないと思いますが、こんな環境や雰囲気の中でいろんな知識を吸収し、人と対話したりという喜びは、それこそ数値化できない豊かさですよね。このあいだ「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)世界大学ランキング日本版2019」でICUは私立大学で1位になりましたが、その要因の一つが学生満足度の高さでした。「自分は良い環境の中で学び、大事な時間を過ごせた」という肯定感や満足感を持つことは、生きる上での土台となり、自信にもつながります。そんな精神を養える環境が大学にあるというのは、とても大事なことではないでしょうか。

—いま学生満足度のお話がありましたが、岩切先生から見たICUの学生さんはどのような印象ですか?

日常生活でも教室でも、あまり物怖じしませんね。どんな先生に対しても平気で質問できますし。先日、新しい理事長の竹内先生(ハーバード大学経営大学院で唯一教鞭を執る日本人教授であり、ICUの卒業生)がキャンパスを歩いていたら、学生が寄ってきて「自分はこれから留学するので、自分と仲間に向けて今度話をしてください」と声をかけられたと言っていました。馴れ馴れしいというのではなく、人に対する垣根が非常に低いのですね。学内には境遇も国籍も異なるたくさんの人がいるので、“人は対話を通じて理解し合うことが可能だ”という信頼感がベースにあるのだと思います。

—先生がたと学生さんの距離が近いのですね。

そうかもしれません。人はそれぞれに自分の考えを持っていて、他者とそれを共有したり突きあわせたりできるという確信は、信頼がないとできません。授業で質問することも同じです。質問を受けたら先生は答えますし、少人数のときはそれを機にディスカッションが始まることもあります。そういうアクティブラーニングのような対話型、あるいは自分で課題を見つける形式の教育方法のほとんどは、ICUのリベラルアーツ教育では伝統的に行っていることです。先ほどお話しした理事長も、学生からの提案を「面白いことを言ってくれた」と喜んでいましたね。そういう雰囲気の大学です。

—高校生に向けて、こんな学生にきてほしいという思いはありますか?

物事をやるときに「これは何のために行うのか」と思うような人はぜひ来てほしいですね。高校の授業など自分が学んでいることに対して、それは偏差値を上げるためということではなく、人間や社会を理解する上でこれはどういう意味を持っているのか、そういうことを真剣に考えているとクラスの中で浮いちゃう人もいると思うんですけど、逆にそういう人はICUに目を向けてほしいですね。うちは英語がすごくできなきゃダメと誤解されがちなのですが、決してそんなことはありません。英語は入ってからでも伸ばせますから。自由な学びがあって、個性が伸ばせる場所。人間と世界への好奇心にあふれた方にきてほしいと願っています。

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