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日本におけるリベラルアーツ教育のパイオニアとして知られる国際基督教大学(ICU)。コロナ禍やロシアによるウクライナ侵攻など国際情勢が混迷を極めるなか、平和を構築する人(peace builder)を育成することをミッションに掲げる同学の役割は、従来にも増して大きくなっていると言える。同学が取り組む教育やその先に見つめる人材像と社会の姿について、岩切正一郎学長に話をうかがった。
取材 松平信恭(大学通信)
学長/教授
岩切正一郎 (いわきり しょういちろう)
専門
フランス文学 演劇
主な研究テーマ
フランス近・現代詩、おもに詩人ボードレールに関する研究。フランス戯曲の翻訳論と実践。
学歴
1983年 東京大学文学部フランス語フランス文学専修卒業
1988年 東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専攻修士課程修了(M.A.)
1991年 東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専攻博士課程満期退学
1993年 パリ第7大学テクスト・資料科学科第三課程修了 (DEA)
職歴
1996年 国際基督教大学教養学部助教授
2007年 同教授
2011年 同アドミッションズ・センター長
2019年 同教養学部長
2020年 同学長
受賞歴
2008年 第15回湯浅芳子賞(翻訳・脚本部門)
平和を創る人を育成。
「対話」を通して自身と他者への理解を深める
―新型コロナウイルス感染症の感染拡大が始まってから2年余りが経ちました。今年2月にはロシアがウクライナに侵攻しました。現在の国際情勢を、貴学としてはどのように受け止めておられるでしょうか。
コロナについては、この2年あまりの間、オンラインでの交流や一部の交換留学を除いて、国際交流に大幅な制約を受けました。2022年春からようやく、人的交流が復活してきたという状況です。学術会議もオンラインからリアルに戻りつつあるのですが、国によっては入国時の隔離措置などのため、参加を見合わせざるを得ないというケースもあります。いっぽうで、コロナはオンライン学修を普及・定着させました。新たな学び方に関する知見が得られたことは、コロナがもたらしたプラス面での変化だと受け止めています。
ウクライナ情勢を始め、現在の国際情勢の大きな問題は、権力者の力の行使と市民の幸福のあり方との間に大きな亀裂が生まれていることです。それに対して、私たちは平和の意味を、そして大学であれば学術の意味を、あらためて考えなくてはなりません。学術と政治は切り離されているように見えて、現実には無関係ではありません。
―このような時代において、大学が果たすべき役割は何でしょうか。
本学は第二次世界大戦への反省と平和への願いから誕生した大学です。その目的は、平和を構築する人(peace builder)を教育を通じて育成することにあります。献学時からの変わらぬ思いを受け継ぎ、目標とする人材の育成に取り組むことこそが、本学の果たすべき役割だと考えています。
平和の構築には、誰もが互いに人権を尊重することが何よりも大切だと、本学では考えています。入学式で新入生が国連の世界人権宣言に基づく「学生宣誓」を行うのもそのためです。学生には在学中に、教育を受ける権利、幸福を追求する権利、さらに自国から他国へ逃れる権利など、様々な人権について理解を深めてもらいたいです。また、対話を通してより良い答えを探していくという、民主主義を体感してもらいたいと思います。
本学は日本におけるリベラルアーツ教育のパイオニアとして知られています。リベラルアーツとは、人間性の涵養と人格の成熟を目指す教育と説明されることもあります。「人として大切なことは何か?」という根本的・本質的な問いに対して自分なりの答えを確立するための学びとも言えます。これは、「時代の変化に適応したものだけを学ぶ」という教育とは異なるものです。
例えば近年は、情報科学分野の学びへのニーズが高まっていますが、ニーズがあるという理由だけでそれを学ぶというのは、本学の考え方とは違います。「人として大切なことは何だろうか?」「平和を構築するためには何が必要か?」をまず考え、その目標にたどり着くための手段として、学びの領域を拡張していくのです。その1つとして、今の時代であれば情報科学技術を学ぶといったこともあり得ます。「意図したわけではないが、結果として時代の変化に適応した」と言えるでしょう。そういった人こそが、真に社会で求められ、力を発揮していけるはずです。もし仮に、変化の結果として社会が悪い方向に変わってしまうとしたら、たとえ時代が求めていようとも、そのような変化に適応する必要はありません。ですから私たちは、「何のために学ぶのか」を非常に大切にし、常に学生に問いかけています。
―貴学では対話を非常に重視されています。
様々な意見に触れ、自分の考えを深めるためには、他者との対話は欠かすことができない要素です。本学では、教員と学生が対等の立場で対話を行っています。なぜなら、健全な対話を行うための基盤になる良識や理性は、学生も教員も等しく備えていると考えるからです。もちろん、経験や専門性という点においては、教員に一日の長があります。そこで学生は、対話を通して教員たちから様々な学びを得ることができるのです。逆に教員は、学生からの素朴な疑問や、思いがけない指摘により、気付きや更なる研究へのきっかけを得ることができます。学生と教員との距離が近く、日常的に活発な対話ができる関係があるからこそ、学生も教員も互いに学び合うことができるのです。
対話を促す仕組みの一つとして、毎回の授業後に授業の感想や疑問などを教員に伝える「コメントシート」を活用しています。教員はコメントシートに目を通し、学生にフィードバックを行います。ここで力を発揮するのが、本学の時間割の設定です。本学では1つの授業が週に複数回行われるため、コメントシートに対するフィードバックは早ければ2日後には得られます。このスピード感が対話をより良いものにしています。また、学部生が合計で約3000人と小規模であることも、濃密な対話を支える重要な要素です。
―海外からの留学生も学内に多く在籍しています。このことは、対話を深めるという点においてどのように作用しているでしょうか。
私たちは自身の考えを普遍的なものだと捉えがちです。しかし実際には、様々なバイアスがかかっています。文化や教育はその代表例です。そのことに気付くきっかけとなるのが、異なる文化圏からやって来た学生との対話です。バックグラウンドの異なる学生との対話によって、自分の中に無意識に存在していた偏りや、見落としていたものに気付くことができます。これは「意識化する」というプロセスなのですが、意識化することは、自分を変えていくための大きなステップになります。
―自身を知り、他者との違いを認識することはグローバル時代において非常に重要なことではないでしょうか。
まさにその通りです。「異なる人」たちが集まるグローバル社会において、私たちは「どこで、どうやったら共通理解を得られるだろうか」を常に模索していると言えます。これには前提として、「きっとどこかで共通理解を得られる」という考え方があり、相手に対する信頼や、「人とはわかり合えるものである」という人間そのものに対する信頼があります。
ではなぜ、そういった信頼を持つことができるのかというと、自分自身が他者に受け入れてもらったり、逆に受け入れた経験をしてきたからです。例えば海外に留学して自分自身が「外国人」になり、現地社会の一員として暮らす経験をすると、自ずと「他者を受け入れるとは?」「人を理解するとは?」ということを考えるでしょう。その経験が、人に対する信頼に繋がっていくのです。
もちろん、ビジネスをはじめとした国際交渉の場では、利害をめぐるタフなやり取りが行われているでしょう。しかしその土台には、人に対する理解や信頼があるのです。仮にその土台がなくなってしまうと、国際協力や協調は成り立たず、単なる搾取だけが目的になってしまうでしょう。そのようなことが起こらないようにするために、人間への信頼や理解を促すことも、教育の役割だと私は思います。きっと、世界中に大学というものが存在している理由の1つは、そこにあるのでしょう。
自然科学分野も充実。
「メジャー」を中心に、自身の興味を探究
―貴学は教養学部アーツ・サイエンス学科という1学部1学科体制を取っています。入学後の学び方について教えてください。
学生は入学後、一般教育科目やメジャー(専修分野)の基礎科目を中心に、様々な分野に触れながら、自身の興味・関心の軸を見極め、2年次の終わりにメジャーを選択します。3年次からは選択したメジャーを中心に学びを深めていきますが、本学では、2つの分野を修める「ダブルメジャー」や、2つの分野の比率を変えて修める「メジャー、マイナー」という仕組みも用意しています。
1学部1学科体制の利点は、入学後に専門分野を決められることです。一般的には大学受験の時点で学部を選択する必要があります。しかし高校生が、その段階で持っている情報や見てきた世界だけで専門分野を選択するのは、決して簡単なことではありません。それに対して本学の仕組みでは、大学入学後の2年間で様々な分野の授業を履修したうえで専門分野を決めることができます。加えて、教員は、メジャーの専門科目はもちろん、一般教育科目の基礎科目の授業も担当します。本学の「一般教育科目」はいわゆる「一般教養」の授業というイメージではなく、より広い視野を持つ専門的な学びに触れることができるのです。そのこともまた、より良いメジャー選択に繋がっています。
専門分野を深く学ぶうちに、関連する他分野への興味や関心が高まることもあります。メジャー変更はもちろん、1年生から4年生まで、自分のメジャー以外の授業をいつでも履修できることもポイントです。
―自然科学分野のメジャーも充実しています。
日本ではリベラルアーツと言うと文系のイメージを持たれがちなのですが、本学には生物学、物理学、化学、数学、情報科学などの自然科学分野のメジャーがあり、他の総合大学の専門学部と同等の専門的な学びを深めることができます。大学院進学率も例年2割ほどと他大学に比べて高く、進学先は本学の大学院をはじめ、国内外の大学院など様々です。
今年の11月には、リベラルアーツの学びを象徴する「トロイヤー記念アーツ・サイエンス館」も完成します。
文理の垣根を越えて、自分の興味・関心をとことん追求することができます。
―5年間で修士を取得できるプログラムもあります。
国際機関やグローバルに事業を展開する企業に就職する際は、修士の取得を必須条件として求められるケースが増えています。とはいえ、6年かけて学士と修士の学位を取得するには、学生にとって負担も大きいです。本学の「学士・修士5年プログラム」では、学部の4年次に大学院の科目を履修し始め、学部卒業後の1年で修士の学位を取得することができます。今後、修士の学位を求める流れは加速するはずです。専門性を高めながらいち早く次のステップへ進んで行ける本学のプログラムを、より多くの学生に活用してもらいたいと考えています。
大学時代は人生を方向づける時間。
「生きるとは?」「人間とは?」を問い続けてほしい
―学生にはどのような期待をされているのでしょうか。
現代社会は、分断の色合いが濃くなっています。アメリカのトランプ前大統領はその代表例と言えますし、ウクライナ情勢も東西の分断、民主主義と専制主義の分断と考えることもできます。しかしこのような時代だからこそ、本学の学生には「人間そのもの」への理解を深めてもらいたいと思います。「生きるとは何だろう?」「人間が大切にすべきものは何だろう?」そのような問いを胸に、自分なりの考えを持って発信できる人になってほしいです。また、他者に対して開かれた人間であることを期待しています。
もう1つ加えるなら、同調圧力に屈しない人であってほしいですね。本学のリベラルアーツは、学生が自由で独立した批判的精神を身に付け、理性的な決断ができるようになることを目指しています。それは、非理性的な力の支配とも言える、同調圧力に屈することとは対極にあります。本学卒業生の活躍が、同調圧力による息苦しさも漂う現在の社会を変えていく一助になることを願っています。
―高校生へメッセージをお願いします。
社会はものすごいスピードで変化しています。次に何が起こるかは、誰にも分かりません。コロナ禍やウクライナ侵攻のように、自分一人の力だけではどうにもできないことも起こります。もしかすると、無力感にとらわれてしまったり、不条理さに苛立ちを募らせてしまうこともあるでしょう。そんな時代であってもどうか、自分の興味を大切にしてください。
人生は長いです。大学時代は、卒業後の60年、あるいは80年にも及ぶであろう人生の土台を作り、方向付ける時期です。その大切な時期にぜひ、人間をどう理解するのか、世界をどう理解するのかということを自問し、そして他者と議論して欲しい。その経験はきっと、生涯にわたる財産になるはずです。
ますます深化するICUのリベラルアーツ
新たな学びの拠点「トロイヤー記念アーツ・サイエンス館」 が2022年11月に完成!
リベラルアーツの学びを象徴する新しい施設が誕生します。環境研究のための屋上庭園やガラス張りのオープンラボといった、リベラルアーツにおけるサイエンスの学びが学生の日常に溶け込み、思いがけない発見や出会いを生みだす空間は「学問分野を超えた知の統合」を実践する場となります。
学生の手で『日英仏3言語ビジュアル版世界人権宣言』を翻訳・出版
ビジュアル版 人権シリーズ
『日英仏3言語 ビジュアル版 世界人権宣言』
国際基督教大学 訳/遠藤ゆかり 訳
創元社
ICUの学生は全員、入学式で、世界人権宣言の原則に則って学生生活を送る旨を宣誓します。2021年には、世界人権宣言へのより深い理解を目指した『日英仏3言語ビジュアル版世界人権宣言』翻訳・出版プロジェクトが発足しました。40名を超える有志の学生が参加した同プロジェクトでは、人権宣言が誕生した歴史的経緯や文言の背景にある文化や思想にまで理解を深めつつ、「ICUの新入生のために」という視点に立って1つ1つの言葉を選びながら英訳が進められました。完成した書籍は2022年4月に出版され、新入生に配布されました。
ICUならではの教育環境が支えた
ウクライナ学生の受け入れ
2月24日に発生したロシア軍によるウクライナ侵攻を受け、ICUは3月8日にウクライナ学生を受け入れる声明を発表しました。受け入れにあたっては、在ニューヨークの日本国際基督教大学財団(Japan ICU Foundation)と難民となった学生に日本で教育を受ける機会を提供する一般財団法人パスウェイズ・ジャパンと連携し、計5名の受け入れを実現しました。ICUでは同様の枠組で2018年からシリア難民も受け入れており、今回は資生堂からも協力いただいています。
学生の受け入れにあたっては、通常は母国で学んできた内容とマッチする学部への配属が行われます。しかしこのプロセスが障壁となり、「受け入れたい意思があっても配属できる学部がない」という事態が起こることがあります。ICUはリベラルアーツの1学部体制のため、この問題が起こりません。日英バイリンガルのリベラルアーツ・カレッジというICUならではの教育環境は、難民留学生の受け入れにあたっても大きな力を発揮していると言えます。